2001年09月28〜30日(金〜日曜日)

 週末は爆睡状態がしばらく続きましたので、更新する時間もありませんでした。失礼。EZ!TVの千野さんのコーナーでやってましたが、「戦争と国家と自分との関わり」というのは難しい問題です。私もニューヨークやワシントンでそこら中にアメリカの国旗が翻っているのを見て、日本だったら.....自分だったら.....と随分考えました。

 日本を自然国家だとしたら、アメリカは理念国家といっていいほど、国の成り立ちが違う。日本人は生まれながらに日本人のところがあるが、アメリカはそうではない面がある。アメリカ人は作られる、と言っても良い。それが強さでもあるわけだし、日本では「日本人を作ろう」として悲惨な結果を招いたこともある。

 国の為に死ぬるかという質問に対して△を出した若者が多かったのは、その通りなんでしょうな。彼らにとって突然国家と言われても、ということでしょう。イスラエルの若者は論理がはっきりしていて、「負ければ国がなくなる」という意見。グローバライゼーションが一方で進む中で、国家というもののの役割も、その中に住む人々の国に対する思いも違ってきている。実際にその危機を突きつけられないとなかなか明確には方針が出ない問題なんでしょうね。

 最近ずっと興味を持って調べているのは、ブッシュの言う「WHY DO THEY HATE US ?」ということです。ブッシュが「us」と言っているのは、むろんアメリカです。週末のクリスチャン・サイエンス・モニターには、同一表題の長い記事があった。全部読みましたが、面白かった。あと、飛行機の中で読んだFTにも興味深い記事がありましが。

 やや結論じみたものに到着しつつあるのですが、世界の人々のアメリカに対する姿勢というのは、結局は AMBIVALANT なんですな。好きという感情と嫌いという感情が同居している。つまり、思いが強いのです。多分、イスラム世界に住む人々の間でも「好き」という感情が強い。なのに....と言うことで、嫌悪感も強くなると言う状況。

 イスラムの対米嫌悪感の中では、アメリカが対処可能なものと、不可能なものがある。十字軍から始まるイスラムのキリスト教世界に対する「競争意識」「対立意識」はアメリカは解消することは難しい。これは、アラブとイスラエルの対立が永遠に解決しないのと同じです。イスラムの連中には、競争意識があるから「どちらが優越しているか」という意識があるはずです。しかし、どう見てもイスラムの旗色が悪い。

 経済力を見ても、軍事力を見ても全部そうです。これでは、イスラムのキリスト教世界に対するライバル意識、敵対意識は高まらざるを得ない。それに殉教という考え方が重なる。この部分はアメリカではどうしようもない。キリスト教世界のチャンピオンとしてのアメリカの存在は、イスラムにとっては常に煙たい筈です。

 しかし一方では、アメリカが出来ることはある。それは、少なくとも中東和平での「忠実な仲介者」としての役割です。ビンラーディンのような教えを説く連中は「イスラエル」という国家そのものを認めないわけだから、和平も何もあったものではない。しかし、世界の大部分のイスラム教徒は、中東での和平を望んでいる筈で、常に攻勢に出ているイスラエルに、そしてその後ろにいるアメリカに反感を持っているはずです。

 その点でアメリカは大いにやることがあるし、出来る。しかし、ブッシュになってそれが疎かになった。クリントンはそれが出来ていたと思うのです。今後のアメリカがもっと「WHY DO THEY HATE US ?」という議論を深めてくれることを望みたい。あと興味あるのは「近代社会におけるシステムとしてのイスラムの有効性」です。
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  AMBIVALANTと言えば、日本人の長島茂雄に対する感情にもそういうところがあるのでしょうね。でもこちらは、「好き」の人が圧倒的に大きい。今のプロ野球選手など、ほぼすべて長島さんの影響を受けている筈です。その人が永久名誉監督に引っ込む。

 来年からのプロ野球はなかなか大変な気もしますが、まあ世の中面白いもので一人の大物が抜けた後も、であるが故にチームもシステムもうまく回転する場合がある。アレックス・ロドリゲスが抜けた後のマリナーズのようなものです。でも巨人は昨日の試合は絶対に勝つべきでしたね。


2001年09月27日(木曜日)

 ケネディー空港は相変わらず閑散。警備は少し厳しくなったかな、という感じ。とにかく警官の数が多いのです。しかし、今まで1分で済んでいたものが2分になる程度。ワシントンに行くシャトルも、空港に着いて5分でもう飛行機に乗っていましたから。要するに、大袈裟に報道されているほど変わったわけではない。

 問題は中身なのです。多分これは木村秀美さんから聞いたことですが、空港のセキュリティーに関わっている人たち、例えば荷物をエックス線で見る役割の人の手当は、最低賃金に近いらしい。そりゃ力が入らないですよね。確かに以前のことを考えると、呆然と「見ているのだろうか」と思うよう態度でスクリーンを見ているような人が居た。

 空港のセキュリティーは民間会社にではなく、連邦政府に委せようという意見が出てきているのは当然です。公務員なら、給料も高いし、それなりきの使命感もある。しかし、確信を持つ犯人が何かを武器にしようとして、それを武器にハイジャックを試みたら、防ぐことはなかなか難しいのでしょう。「確信」を持ち、死を覚悟した個人ほど、扱いに困るものはない。
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 NH009は320人乗りで、女性アテンダントによると127人が乗っていました。しかし面白いのは、エコノミークラスが超ガラガラでどちらかと言えばビジネスクラスが混んでいる。ツアー客が激減している影響でしょう。ビジネスに乗るような客は、嫌がおうにも移動せざるを得ない人たち。

 忘れないように書いておくのですが、私が乗った飛行機には「Business Center」があって、ファックス、電話、PC電源や机などが揃っていたのですが、その上に記載されていた注意書きに目がいった。

Business Center Must not Be Occupied for Taxi,Takeoff And Landing
 とあった。なんじゃ「taxi」とは。調べたら、「<飛行機が>誘導路(taxiway)を移動する」と。へえ、知らなかった。
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 ニューヨークへの行きは11時間ちょっとなのに対して、成田向けは13時間30分くらいかかる。長いんですよ。でもおかげで、海外の新聞などをゆっくり読んだり、今回の一連のことに関して、自分の頭をまとめる事が出来ました。結局の所、日本が西側諸国と行動をともにしなければならないのは、「日本もやられるかもしれない」からではないのです。日本がイスラムのテロ組織に狙われる可能性は薄い、というのが私の結論です。

 そうではなくて、この問題は「体制選択」なのです。今まで通り西側に居た方が、私が、貴女が、そして大多数の日本人が富と繁栄と幸福を享受できるのか、それともビンラーディンやタリバンの世界観の中で生きるのが幸せか。極端だと思われるかもしれないが、ビンラーディンは端的に言えば1000年の歴史をひっくり返そうとしているところがある。

 それが今の私にとって、貴方にとって幸せかどうか。むろんイスラムと対決したことがない日本にはいろいろ出来ることがある。そのところは考えなくてはいけない。しかし、「テロリストにも一理あり」といった議論は、そもそも論点を外しているし、今のアメリカが狙われているのはキリスト教世界の中で最強であって、狙うに値するから、と言う可能性が強い。

 恐らく余計な敵意を避けるためには、アメリカもサウジアラビアの地、イスラムにとっての聖地から軍隊を引く知恵を持つなどが出来なくては、いたずらにビンラーディンの支持者を増やすことになるのでしょう。アメリカがこのことに気づかないのが、私には分からない。本当は「人の心のヒダ」が分かっていないのでは、と。その意味では、ブッシュ政権の中の路線闘争の結果も今後極めて重要です。


2001年09月26日(水曜日)

 ワシントンから帰ってマンハッタンに入ったのが午後8時半くらい。おなかが空いたので、野菜天麩羅でも食べようと49とパークの稲ぎくに。驚いたのは、日本人(またはその団体)がいない。非アジア系ばかりなのです。

 店の人と話したら、11日以来日本企業の従業員には一応「出歩くな」という指令が出ているところもあって、また東京からの出張者が少ないとこともあって店が静かになってしまったとのこと。私が帰ろうとする時にやっと一組の若い日本人の男女が入ってきた。

 「これは夜の日本人社会を調べねば....<^!^>」と思って、「うさぎ」に行ったのですな。近いから。ニューヨークでは比較的名前の通った店です。ここも驚いた。店の奥に大勢さんが居たらしいのですが(部屋になっていて判らない)、手前の椅子席は誰も客がいない。聞くと、11日から3日間は店を休んだそうです。

 開けたのが14日。その日はものすごく混んだそうです。なぜなら、日本に帰れないビジネスマン、観光客が押し寄せたということらしい。武井君の話によると日本人が大挙して帰国を始めたのはその後の週末ですから、話のつじつまが会う。そして、その後は静かになったということらしい。

 ここでずっと生活している方々とお話しすると、いろいろ面白いことが判る。36丁目の5番街には、アメリカ人を入れない日本人だけを対象とした電気店が開店していました。つい最近だそうです。カメラで日本人かどうか見て入れるというのです。なぜそんなことをするのですかね。

 と思って教えてもらったURLを見るとこうした形でなかなか良いことをしている。ニューヨークに住んでいたり、近郊の人は行ってみるのも良いと思います。秋葉原にこういう店があるとは知りませんでした。話していたら、店の人があるチラシを持ってきた。「Vivi」(ビビ)という店が出来たそうで、これは全く日本のキャバクラだという。ニューヨークに3店あるとか。知らなかった。

 私がニューヨークにいるときは結構聞いているラジオ局がサイトを紹介していました。その名の通りで、東京にいてもニューヨークの情報を得るのには便利そうです。
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 ちょっとお名残惜しいのですが、ニューヨーク、ワシントンとやりたいことをほぼしたので、水曜日に帰りますが、ニューヨークにもワシントンにもアメリカ人の知り合いが少なくなったのが残念ですな。こちらに住んでいないと、少なくなってしまう。

 ニューヨークで動いている間には全く忘れていたのですが、来るときに書いた「調べたいこと」のリストがデスクトップに残っているのを発見しました。

  1. ブッシュの感動的な議会演説にも関わらず、ニューヨークの株式市場は経済の先行きを懸念して低迷し、人々の活動も戻っていないようだが、それはどのような形で、どんな条件が整えば元に戻るのか、その時期は、そして戻らない場合はどうなるのか、世界経済は、そして日本は

  2. 先進国の間でアメリカの求心力が高まっている一方で、今回の紛争で重要な地位を占めるアフガニスタンでは反米デモが激しくなっている。これはイスラム対アメリカ、イスラム対先進国、途上国対先進国の対立の構図といずれなってしまうのかどうか

  3. その意味でブッシュのアラブとテロ集団、イスラムと原理主義の分離作戦がこのまま成功するかどうか。時間の経過とともに〈2〉の対立図式になっていかないかどうか

  4. 富と権力に対する世界的な力のない、貧しい人々の反感は強まってはいないか。アメリカのテロ活動に対する報復への反発は強まらないだろうか。反感があり、それがテロリズムの温床となっているとすれば、それはどういう方法で解消が必要か。最近のNGOの活動と底辺で結びついていないか

  5. ブッシュの議会演説に本当にアメリカ人は感動したか。感動せざるを得なかったから感動したのではないか。アメリカはこの終わりなき戦いに本当に勝てると思っているのか。思っているとしたら、なぜアメリカの株式市場は下げ続けるのか(先週は一週間でダウは14.3%下落。これは1933年7月21日に終わった一週間の週間下げ幅15.5%の上回る)

  6. アメリカ経済、よって世界経済の牽引車だったアメリカの消費者の消費は回復への道筋を描けるのか、いつ頃からか。FRBの利下げやブッシュ政権の財政出動態勢(400億ドルの戦費支出、航空業界、保険業界への支援)は、米経済の下支え要因となるか

  7. 物質・成長・進歩の先進国(日本を含む)と、むしろそれから取り残された精神・持続・復古のイスラム的中世世界との対立構造が図式としてどこまで続くのか  へえ、来るときはこんなことを考えていたんだ...と、違う人の疑問を見るような自分がいるのが面白い。的はずれな疑問もあるし、ここには並べることさえ思いつかなかった疑念も沸いてきている。それがこれからの課題でしょうか。


    2001年09月25日(火曜日)

     ハハハってなもんですな。時差ボケか、火曜日は9時過ぎまでぐっすり。もうニューヨークでやることはなくなったので、ワシントンにでも行こうかと思って財務省から米州開発銀行に出向中の木村さんに電話したら、歓迎してくれるとのこと。ニューヨークに行くことが決まってから彼からは「ワシントンには来ないんですか....」。ワシントンには、知り合いも多い。最初から行く気でした。

     なぜ「ハハハ」かというと、タクシーを拾ってマンハッタンを出たのが10時過ぎ。11時10分頃にラガーディアに着いて、ワシントン行きのシャトル(デルタ航空)の乗り場に行ったのですが、まあ人の少ないこと。コーヒーとマフィンを買って11時30分発の飛行機に乗り込み、座る場所が判らないのでチケットを見せて女性アテンダントに「どこ」と聞いたら、彼女の答えがふるっていた。

    Any seat you want !!
     ははは、ほんまでした。予想はしていたが、頭がない。ある頭も、不安そうな頭ばかり。がばっと入ってくる人間の顔を見る。こちとら髭をはやしているし...。まあちゃんとスーツ着て、ネクタイしてましたからね。

     その後の女性アテンダントとの会話。

    How many people can sit in this plane ?

    Probably hundred forty.

    Then how many do you have ?

    Maybe twelve.

     茶色が私、赤が女性アテンダントです。笑っちゃいますね。しかし、これが米エアラインの抱えている現実です。
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     ニューヨークと違ってワシントンは久しぶりでした。着いたのが1時ちょっと前。直ぐにタクシーを拾って、世銀の前まで行ったら木村夫妻が待っていてくれて、タイ料理屋で昼飯。お二人には遅い昼になってしまって、恐縮しています。その日、つまり11日の話をたっぷりと聞きました。

     その時、子供さん二人、ご夫妻、それに日本から来ていたご親戚がそれぞれが別の場所にいたそうで、家に帰り着くまでの苦労話、子供のピックの話など。事件の背景、今後を展開を含めて2時間ほど話をしましたが、実際の状況がよく分かって良かった。ここでも判ったのは、とっさの時は携帯もインターネットも使い物にならないと言うこと。何が頼りかというと、ラジオです。
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     食事を終わった後は木村氏とホワイトハウス、財務省の前を通って、ナショナル・プレスセンターまで。このセンターには、日本を含め世界中のマスコミが集まっている。全く連絡してなかったのですが、米東部時間の午後3時とか4時は日本のマスコミ連中が一番ゆったりしている時間なのです。朝刊は終わり、中継もない。日本は深夜。

     ビルの下の corner bakery で411に電話して朝日新聞の電話番号を聞き、電話したら山脇さんがいた。ラッキーてなもんですな。来てもらって暫く話して、その後上に上がって、高成田総局長さんの部屋でいろいろ意見交換させてもらいました。まあポイントは、アメリカの報復攻撃の時期とテロリストサイドの next attack の時期とタイプ(バイオ、核 ?)でしょう。

     あと同じビル内にあるテレビ朝日に電話したら鈴木君が居て、彼のオフィスにも行ってしばらく話しました。私がニューヨークからワシントンに向かっている最中に小泉首相とブッシュ大統領の会談後の記者会見があったそうで、その時にブッシュに指してもらったと嬉しそうでした。私が見ている限りでは、彼は日本の記者の中で一番ブッシュに顔を覚えてもらっている記者です。

     日本の夕刻、ワシントンの朝の4時、5時に生出演を依頼されて「何か最新情報は...」と聞かれるのが一番つらいと言ってましたな。そりゃそうだ。そんな時間には、何も新しい情報などない。で(朝4時、5時に使われると言うこと)、ワシントンのテレビの連中は近くのホテルの部屋を確保して、寝れるときに寝るという生活を続けているらしい。中には一週間全く自宅に帰っていない人もいるとか。つまり、奥さんが下着を届けている。大変ですな。
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     結局ワシントンに居たのは6時間で、午後7時発のシャトル(今度はUSエア)で帰ってきました。爆睡していたのですが、着陸の直前に目を覚ましたらちょうど左側にマンハッタンの夜景が見えて、ワールドトレード・センターがあった場所には煌々とライトが当たっていました。きっと夜を徹しての作業が続いているのです。おっと、帰りの飛行機は140人乗りで、乗客は18人でした。


    2001年09月24日(月曜日)

     かなり歩きました。朝の1010(ニューヨークのニュース専門ラジオ)でダウが200ドル前後の上げであることを聞いたのはホテルででしたが、それから5番の地下鉄に乗ってウォール街へ。この電車はウォール街に行くまでにほんの数個の駅しか止まらない。便利なのです。ダウンタウンに行くと、フルトン、ウォール・ストリートと止まる。

     着いたらちょうど9時28分頃。NYSEの前にはかなりの数のカメラ。この地域はいくつかのポイント(ビルの間の道路)でこの地域に働いている人しか入れないシステムになっている(証明書を提示させられる)ので人影は多くないのですが、小生は迂回ポイントから入って、ニューヨークのオフィスの目原君と携帯で話しながら、実際の寄りの上げ幅をチェック。週末のニューヨークの雰囲気では上がるという予感がありましたが、その通りだった。

     本当は場の中で月曜のオープニングを迎えたかったのですが、それは東京を出るときに手続きがうまく行かずにNYSEとの交渉はぶっつけ本番だったし、この日の取引所を巡る環境から止めたのです。次は事故現場の周辺です。ここにも書きましたが、事故の周辺地域の様子はだいぶ安定してきている。下から見てブロードウェーの右側(東側)はかなり様子が戻った。事後現場から直ぐの商店やコーヒーショップも店を開け始めていた。

     ただし、今の「立ち入り禁止区域」はかなり残りそうです。なぜなら、膨大な瓦礫の処理には人の立ち入りを禁止しなければならない領域というものがあるし、それに関わるトラックの優先通行を保証して置かねばならない。多分キャナル以南への車の立ち入りはかなり長く続くのでしょう。従ってウォール街から上、キャナルから下の客相手のビジネスは当分厳しいと言うことになる。
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     商魂逞しかったのはキャナル通りの南と北の一部にあるチャイナタウンでしたな。テロ事件に関連するTシャツ、その他小物が所狭しと並べられている。しかし私が好きな「合記飯店」の入り口には「28日まで休み」と冷たい通告。お粥でも食べようと思ったのに。

     小泉首相の記者会見を全く偶然にテレビで見たのは午後でした。たまたまラジオを付けたら、koizumi koizumi とアナウンサーが言っている。ほんじゃとテレビを付けてNY1に回したら、小泉首相が出ていた。私のいたころには、このテレビ局はなかった。佐々木君に言わせれば、CNNの子会社だと言うのです。

     しばらく見ていましたが、「ああ、アメリカは友達が欲しいんだ」という実感がしました。記者会見の左側がパタキ・ニューヨーク州知事、右側がジュリアーニ市長(彼は再選、延長などの問題は考えている暇がないとその後記者会見)。二人が取り囲むように、木訥と英語を喋る小泉首相を囲んでいる。見ていて小泉さんという人は、何かが一つ欠けているというか、そこが愛嬌というか、改めて思いました。英語も木訥すぎる。歴代の日本の首相の多くが英語を喋らなかったことからすれば前進なのかもしれないが、中曽根さんの英語演説の方が安心して聞けた。小泉さんは「次に何を言うかわからん...」という不安定感がある。昨日はカナダの首相が来ていました。
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     夜ショックだったのは、総勢6でチャイナタウンで食事をして、リトルイタリー、ソーホーを抜けてビレッジまで歩いたのですが、ビレッジに入ったらレストランの従業員、オフブロードウェーの従業員からかなり真剣な目で「入っていかないか」と声がかかったこと。これは、私の記憶にはなかったことです。

     演劇界、特にオフブロードウェーが厳しいことは新聞の記事には出ている。ビレッジにはいくつかオフブロードウェーの劇場がある。誘いに私に近づいた男の子が「ジョークと笑い」と言ったかな。この手は駄目なんですね。「面白いよ....」というから、「こちとら、英語もわからん奴もいるから....」と。しかしあとで考えて、入ってやっても良かったかな、と思いました。私も、アメリカ人のジョークが判るほど英語が旨いわけではないので、つい断ってしまった。

     レストランもそうなのです。いくつかのイタリアレストランの前で、「腹は空いとらんか....」と。店内を見るとガラガラ。しかし、その隣のレストランは凄く混んでいたりする。こういうことです。テロ事件後の景気の落ち込みは、「格差を激しくした」。その証拠に本当に良いジャズを聞かせるかどうかは別にして、有名な店としてのブルーノートはこの日も非常に混んでいた。


    2001年09月23日(日曜日)

     空港に下りた後のニューヨークの話は、日曜日の夜のEZ!TVや月曜日朝のTBSのラジオでご報告したので、ここでは重複は避けさせてください。ニューヨークでは他にもまだ一杯やりたいことがあるので、書いている時間が惜しい。また、いつか一本にまとめますが、要するに日本で伝わっている以上にニューヨークの人々は複雑な気持ちを持って新たな週を迎えようとしていると言うことです。

     これだけは言えます。23日のニューヨークでは、二つの大きな球場で大勢の人が集まる集会がありました。一つは、今回のテロ事件で殉職したFDNY(ニューヨーク消防局)やNYPD(ニューヨーク警察)を讃え、また事件で死んだ人々に対するお別れをする集会。これは24日のニューヨーク・タイムズの一面トップになっているし、多分日本でも多くのメディアが報じたでしょう。これはヤンキースタジアムで行われた。

     もう一方の人々が集まった大きな球場はクイーンズにあるシェースタジアムです。球場発表によると、そこには4万1368人が集まった。彼らは土曜日までに5連勝で首位のブレーブスにあと3.5ゲーム差に迫ったメッツの試合を見に来た人。私も後者の中に居ました。多分このシェースタジアムに集まった人々の事については、スポーツ面でしか扱われていないのでしょう。

     しかしヤンキースタジアムに行った人たちに比べて、シェースタジアムに集まった人々が9月11日とその後のニューヨークで起きたことに対する悔しさや、死んだ人々に対する敬虔な気持ちが薄かったかと言えば嘘になると思う。それは、彼らが着ているもの(TシャツにはNYPDやFDNYの字が印字されている)、試合の途中の回の変わり目に大スクリーンに映し出される「American Heroes」(FDNY、NYPDやジュリアーニ市長)のビデオに対するスタンディング・オベーションでも判る。

     彼らはそうした気持ちを持ちながら、一方でメッツを強烈に応援しに来ているのです。それは矛盾しない。もっと言えば、彼らはある程度の覚悟をもって来ている。なぜなら、シェースタジアムは国内専用のラガーディア空港の直ぐ近くにある。私がいた一塁側の3階席の最前列からは、同空港に次々に着陸する旅客機がよく見える。あのうちの一機でも少し舵を左に取れば、シェースタジアムは格好のテロ攻撃目標なのです。4万人を殺せる。観客はそのリスクを承知で、「しかし小さいだろう」という判断で来ていると言える。

     メッツは9回の表にクローザーのベニテスがそれまでの3点のリードをホームランなどで失ってタイされ、その後延長戦で負けてしまったのですが(新庄は1安打だと思った)、仮にメッツが勝ち続けたらニューヨークにとって大きな力となったでしょう。事件は悲惨だったけれども、球場はオープンしなければならないし、タクシーの運転手は客を運ばねばならず、ホテルも客を迎えねばならない。

     服喪期間が長くなればなるほど、アメリカ経済の傷は深くなる。日本では直ぐに日本への影響という被害者的(?)分析になるが、これは失礼な話です。日本が今世界に対して一番できること、しなければならないことは他人に期待することではなく「自分の家を綺麗にし、内需の強い市場」を世界に供給することで、アメリカ経済の fallout の打撃を心配することではない。

     少なくとも、ニューヨークで見ている限りは11日のあの悲劇の後遺症を抱えながら、ニューヨークの連中は自分の仕事が出来る環境を取り戻そうと努力しているように思う。うまくいくかどうかは判らない。空港はガラガラ、ホテルもそう。タクシーの運転手は、一時よりはよくなったものの客の少なさを嘆く。

     多分「日常」「平常」に戻らなければ、チェイニーの言うところの長い戦争はできないのでしょう。日常、平常が出来ないようなら、今のアメリカのような民主社会では長い戦争を戦う前に経済が力を落として、あらぬ方向に走りかねない。24日からはニューヨークのマーケットがまた開く。先週は14.3%の下げ。しかし、22日のニューヨークでの人の出などから見ると、いったんは今週の市場は反発すると思う。問題はその後です。
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     今これを書いている時点の最新ニュース(ラジオの1010が役立つ)は、12月に再選禁止の任期が来るジュリアーニ市長が、市議会に任期の延長を求めることにした、というものです。やる仕事がたくさんある、という姿勢でしょう。

     ジュリアーニは実物を23日の夜に見ました。54丁目のパークとマジソンだったかの間にあるビーチェで佐々木家と食事をしていたら、車が数台隣のステーキハウスに来て、まず護衛のような連中が下りてきて、その後に下りてきたのがジュリアーニ。小柄だった。隣のレストランにいた客が一斉に拍手をし、歓声を上げたので判った。多分、ヤンキースタジアムでの式典の打ち上げをしに来たのでしょう。ブッシュ支持率が上がっているのと同じように、ジュリアーニのニューヨークでの人気は抜群です。


    2001年09月22日(土曜日)

     予定を変更して、土曜日にアメリカにやってきました。21日の夜に東京でテロ事件が起きたときにニューヨークにいた武井君と食事(ニューヨークの寿司屋の出店で Sushi of Gari=南青山で)をしながら話をしたり、金曜日にニューヨークから帰国した田中さんと電話で二回ほど話をしたあとで。

     今回は携帯電話の手配もうまく行きました。ニューヨークの佐々木君にプリペイド式の電話を買ってもらい、その電話番号を確かめた上で小生の東京の携帯電話に電話がかかってきたらそれがニューヨークで新たにゲットした小生の携帯に自動転送されるよう手続きをしたり。やはり、ドコモでいくつかの手続きが必要でした。1429で手続きするのですが、国際電話に転送する場合には、国際通話の手続きが必要。

     ですから、私の東京の携帯電話の番号を知っている方は、いつもの通り電話を掛けていただくとニューヨークにいる私に繋がることになる。しかし、時差(東京が13時間アヘッド)だけはお忘れ無きよう。変な時間にかかってきたら、出ませんから。<^!^>

     飛行機(NH10)はがらがらでした。田中さんの時(彼は再開第二便でした)もそうだったらしい)。乗務員さんに確かめたら、「320人乗りに67人のお客さん...」と言っていました。最近数年間に乗った飛行機の中では、一番客が少ない。まあ、珍しいものが迎えてくれました。アンカレッジの上空だと思ったのですが、帯状のオーロラが見えた。写真で見るほど綺麗な色が付いてはいませんでしたが、かなり長い間見ることが出来た。

     警備が重くて出国に時間がかかるのかと思ったら、それほど厳しくはなかった。朝早く到着した分、手続きが済んだら空港の中で床屋に行ったりゆっくり出来ました。床屋は2階にある。ただし、警備の回数は増えた。最後に飛行機に乗り込むところでも、また持ち込み荷物の点検をされて、持ち主と荷物の照合をされましたから。そうそう、最後の搭乗ゲートの所でもパスポートの写真と実物とを比べられました。驚いたのは、空港を出てアメリカ国内に入るのに、再び荷物チェックがあったこと。バッグをすべて開けさせられた。それだけ厳しくなっていると言うことです。
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     下りたら、空港の中には佐々木君が送ってくれた迎えの人は来ていましたが、車が入れない。つまり駐車できないということで、駐車場まで運転の人と一緒に歩き。空港の中は、本当に閑散としていた。不要不急の旅行は控えている人が多い証拠でしょうか。運転手さんにはクイーンズ・ブルバードを走ってもらって様子を見ましたが、この段階でも、つまりニューヨークの22日の午前11時前は人通りがまばらだった。

     しかしホテルにチェックインして昼過ぎに佐々木君と街に出たら、かなり人出があってやっとニューヨークらしい雰囲気に安心しました。それにしてもあらゆるところに張ってあるアメリカの旗。その後ダウンタウンやデパートなどを歩きましたが、その話はまたの機会にしましょう。


    2001年09月21日(金曜日)

     金曜日に私が勤める研究所の中家さんから送っていただいたメールです。彼の以前の上司である服部さん(一級建築士)がWTCがもろくも崩れた理由を説明してくれている。日本の建設物だったら「折れ曲がる」というのは、結構衝撃的ですね。折れ曲がりかたで、その後かなりひどいことになる可能性もあるということです。

     昔から「建物」は出来るだけ強固に造った。頑丈と言うべきか。よって戦後「エンパイヤーステイツ」に誤って米空軍戦闘機が 衝突したときもビルは崩壊せず修繕するだけで、再使用出来た。

     コンピュターが出来て構造計算能力が高まり、高い建物の計算 も可能になるに従い。問題は建物全体の自重である事が判明。 如何に軽く建てるかが超高層ビルの発展のKEYでありました。 地震の多い日本や西海岸では採用されていないけれど、地震 のない國や地域で採用された軽構造の一つに「メッシュ造」と 呼ばれる構造があります。鳥かごや笊(いかき 竹製の籠)を細く長くしたものと思えば 良い。

     「貿易センタービル」(以下BSと言う)も基本は「メッシュ造」 ビルの真ん中に「コア」と称する共用部分があり、パイプ状に ある程度強固に立ち上げられている。外壁は笊である。コアから 床を支える(この考え方がない)梁はナシに等しい。鉄板の床 自身がコアから外壁に向かって伸び出しており、外壁との接点 は溶接どめです。

     この状態でコアがダルマ落としのように3階分 位いブッチギられ、さらに超高温(800度くらい)で熱せられコア の鉄骨の強度を落とされると1フロアー3000トンと想定される床 の溶接は絶対持たない。ダルマ落としでなくなった上階の重量 全部を支えることはもっと出来ない。上部の重量を支えきれなく なった床がコアの鉄骨を引きずり落とすように静かに真下に落下 していったのです。

     後で衝突した北棟か早く崩壊したのは衝突 された階が南棟より下だったため上階の重量が大きく早く床が 耐えられなくなったからです。日本ではなかなか考えにくい崩壊 ですが、地震のない國のビルでは起こりうる崩壊です。日本で ビルに飛行機が衝突したら多分ビルは折れ曲がるでしょう。


    2001年09月20日(木曜日)

     議会で証言したあとにどのような話(質疑応答)をしているのか、現時点では私には判りません。しかし、20日のグリーンスパンの上院での証言は、私が今まで見た中で一番短かった。自分でも最初に断っている。a mere footnote だと。まあそうですよね、まだどうなるか誰にも判らない面がある。

     グリーンスパンが議会で喋っている時点では、ドルは115円台に下げ、株は200ドル以上の下げとなったいる。彼の短い事前準備草稿の一番ポイントの点は以下のところだと思う。such disruptionsと言っているのは、ハリケーン、地震、洪水などの天災です。  

    Although the trauma of September 11 shares some characteristics with such disruptions, the differences are important. In contrast to natural disasters, last week's events are of far greater concern because they strike at the roots of our free society, one aspect of which is our market-driven economy. All modern economies require the confidence that free-market institutions are firmly in place and that commitments made today by market participants will be honored not only tomorrow, but for years into the future. The greater the degree of confidence in the state of future markets, the greater the level of long-term investment. The shock of September 11, by markedly raising the degree of uncertainty about the future, has the potential to result, for a time, in a pronounced disengagement from future commitments. And that, in the short run, would imply a lessened current level of activity. Indeed, much economic activity ground to a halt last week.
     本当にその通りだと思う。今のアメリカは一生懸命取り戻そうとしている。そしてその為に強気を装っているが、confidence は奥深いところで毀損しているところがある。なぜ19人もの若者が、自ら死んでまで自分たちの代表的な建物を壊したのか。わからないから、不気味がっているのだと思う。多分、その「不安感」を取り戻すには、金利政策だけでも、財政政策だけでも無理なんでしょうね。何か、テロを根絶できる確信が得られる、完全に忘れられる何かが必要な気がする。

     上の分析をしたあとで直ぐに「But the foundations of our free society remain sound, and I am confident that we will recover and prosper as we have in the past」と述べてグリーンスパンは自信を示しているが、その根拠が示されているわけではない。その点が市場に対するメッセージとしては弱かった。彼が一番心配しているのは、消費です。  

    During the past week, of course, the level of activity has declined. The shock is most evident in consumer markets where many potential purchasers stayed riveted to their televisions and away from shopping malls. Both motor vehicle sales and sales at major chain stores, some of our most current information on consumer spending, appear to have fallen off noticeably. And, the airline and travel industries have suffered severe cutbacks.
     本当にこれがいつから戻るかなんでしょうね。テロに負けたくない、という気持ちもある。しかし、実際に今回の攻撃は、テロリストもうまく行き過ぎたと思うくらい彼らにとってうまくいったのだと思う。その分だけ、ブッシュ政権の焦りも深いと言うことだ。
     ――――――――――
     God Bless Americaに関しては、実に大勢の方からメールを頂きました。このサイトが一番良いということが判った。midi でメロディーも聞こえる。多くの方にメールをいただき、恐縮しています。

     あと、竹中さんなどからご指摘いただいたのですが、作者の名前は日本では従来からアービング・バーリンとしているケースが多いようです。


    2001年09月19日(水曜日)

     夜の食事会で話に出ていて、今朝ネットを見ていたら見つけたのですが、こういう追悼集会が開かれるそうです。時間に余裕のある人は出かけられれば良いと思います。

     ところで、今最もアメリカで歌われる歌となった「God Bless America」とは一体どういう歌かと調べたら、このサイトの説明が分かりやすかった。unofficial national anthemという説明。5才の時にシベリアからアメリカに移住したアービング・ベルリンがまず1918年にレビュー(時代風刺劇、小喜劇など)の為に作った。しかし、このオリジナルの曲想の solemn tone(重々しいトーン)がその時の出し物と合わなかったことから、この時は使わず。

     生き返ったのは1938年。欧州での戦争の危機が高まっている時に、このベルリンという人は「平和を祈る歌」を作ろうと思って、20年前に作った「God Bless America」を思い出したというのです。その間の世界情勢の変化も踏まえて、歌詞も変えた。

     マスコミに初登場したのは、1938年のベテランズ・デー(11月11日、復員軍人の日で以前はArmistice Dayと言った。米英で第一次、第二次の終戦記念日)でシンガーのケート・スミスが歌ったのが最初だとされる。そこから大ヒットした。こんな資料もありました。

     しかし、昨日ちょっと調べた範囲では、歌詞が分からない。どなたか分かったらお教えいただければありがたい。子供でも歌えるというそうで、簡単なんでしょう。それにしても、このアービング・ベルリンは長生きをした。1888〜1989年とある。19世紀に生まれて101年も生き、ついこの間まで御存命だった。彼はこの歌がこれほどまでに歌われる現状を天国でどう見ているのでしょうか。


    2001年9月9日のワールドトレード・センターの眺望室に入るためのチケット。ニューヨーク旅行中の武井君が保有していたもの 2001年09月18日(火曜日)

     もうこのチケットはニューヨークでも手に入れることはできない。9月9日、つまり事件の2日前の夕方4時15分にワールド・トレード・センター最上階の眺望室に上ったディーリング・ルームの武井君がもっていたもの。デジタルにしておけば、永遠に残る。

     そうなんですよ。自由の女神のサイドから見たローワー・マンハッタンの図こそ、ニューヨークを代表する眺望そのものだった。今はこの二つの棟がない。彼は月曜日にやっと帰国できた。

     結局私も月曜日からしばらくニューヨークに行くことにしました。映像にはかならず嘘がある。ニューヨークという自分も住んだことのある街がどうなっているのかは、見ておかねばならないと思っています。

     ニューヨークの田中さんに電話したら、だいぶ落ち着いてきたとのこと。彼は金曜日には帰国の予定ということで擦れ違いですが、ニューヨークでは大勢の知り合いと会うと同時に、とにかく歩いて見れる物を全部見てきたいと思っています。


    2001年09月17日(月曜日)

     17日のニューヨーク市場の下げは十分予想の範囲でしょう。航空会社株が一日で30%から50%以上も下げている。損保、再保険も安い。下げ幅は絶対値が膨れているから史上最大と言っているが、パーセントでは7%前後。市場は秩序だっており、パニックはなかった。下げて当然の株は下げたから、当面という範囲では反発もありうる。

     それより欧州の利下げには驚きました。FRBが下げたあとでの下げ。声明文も協調をうたっている。先週のテロが起きた後での利下げには驚きましたから、こうした効果を狙っての下げもあったのかと。欧州の株は17日はニューヨークの下げにもかかわらず2〜3%の上昇となった。FOMCの緊急利下げ、それを受けた欧州中銀の利下げ声明を採取しておきます。

    Release Date: September 17, 2001

    For immediate release

    The Federal Open Market Committee decided today to lower its target for the federal funds rate by 50 basis points to 3 percent. In a related action, the Board of Governors approved a 50 basis point reduction in the discount rate to 2-1/2 percent. The Federal Reserve will continue to supply unusually large volumes of liquidity to the financial markets, as needed, until more normal market functioning is restored. As a consequence, the FOMC recognizes that the actual federal funds rate may be below its target on occasion in these unusual circumstances.

    Even before the tragic events of last week, employment, production, and business spending remained weak, and last week's events have the potential to damp spending further. Nonetheless, the long-term prospects for productivity growth and the economy remain favorable and should become evident once the unusual forces restraining demand abate. For the foreseeable future, the Committee continues to believe that against the background of its long-run goals of price stability and sustainable economic growth and of the information currently available, the risks are weighted mainly toward conditions that may generate economic weakness.

    In taking the discount rate action, the Federal Reserve Board approved requests submitted by the Boards of Directors of the Federal Reserve Banks of Richmond, Chicago, Minneapolis, Dallas, and San Francisco.

     ECBの声明で特徴的なのは、最後のパラグラフでしょうか。ECBとしても、ユーロ経済の先行きがアメリカ経済の先行きに依存していることを表明せざるを得なかった。「アメリカでの最近の出来事は、ユーロ圏経済にも悪影響となる」と。それによって、「インフレ圧力は減退する」とも。「アメリカ経済のファンダメンタルズから見た強さには信認を置いている」「景気のスローダウンは短期」だともエールを送っている。

     今は必要な措置をうって、強がっているしかない。私は、アメリカの報復行動の期間が重要だと思う。チェイニーが「years」と言ったとき、思わず「yours」と言いたくなった。大規模な軍事行動の長期化は、株価にとって重荷です。経済のためには、報復行動のメドが早めに立つことが望ましい。

    Monetary policy decisions

    17 September 2001

    Following the terrorist attacks on the US, uncertainty about the US and the world economy has increased. The Federal Open Market Committee has reacted by lowering its target for the federal funds rate today. In concert with this decision, the Governing Council of the ECB met today by means of teleconferencing and took the following monetary policy decisions:

    1. The minimum bid rate on the main refinancing operations of the Eurosystem will be reduced by 0.50 percentage point to 3.75%. Differently from what was communicated in an announcement at 3.30 p.m. today, this change in the minimum bid rate will be effective starting from tomorrow's operation, which is to be settled on 19 September 2001. A new announcement with the revised rates is also being transmitted through wire services.
    2. The interest rate on the marginal lending facility will be reduced by 0.50 percentage point to 4.75%, with effect from 18 September 2001.
    3. The interest rate on the deposit facility will be reduced by 0.50 percentage point to 2.75%, with effect from 18 September 2001.
    In the view of the Governing Council, the recent events in the US are likely to weigh adversely on confidence in the euro area, reducing the short-term outlook for domestic growth. As this is likely to further reduce inflationary risks in the euro area, a lowering of the ECB's key interest rates is appropriate. The Governing Council has confidence in the fundamental strength and resilience of the US economic system. Against the background of the sound fundamentals of the euro area, the Governing Council remains confident that the slowdown in economic growth will be short-lived.


    2001年09月16日(日曜日)

     日曜日の昼頃ニューヨークからメール。この事件の為に急遽第一便でニューヨークに行った田中さんから。

    飛行機は意外なことにすいていました。ホテルもガラガラです。いらっしゃいませんか。
     ニューヨークで携帯電話を借りたようでその番号もあったので直ぐ電話したら、「飛行機はダブル、トリプルのブッキングを入れた人が多かったようで、がらがらでした。ホテルも今のニューヨークは安いですよ」と。ニューヨークのホテルは90年代の後半から高値止まりしていた。それが今回の事件で一挙に値下がりしてきたと言うことでしょう。観光客がニューヨークに戻るまでにしばらく時間がかかるかもしれない。

     「いらっしゃいませんか」と言われても、今週は予定が詰まっている。来週はチャンスありと思っているのですが。その前に、彼が勤める雑誌社の為の原稿を書かないと。


    2001年09月15日(土曜日)

     敬老の日。中国で買ったおみやげを諏訪の両親に届けようとあずさに駆け乗ったら、自分の車両に行く前に出発の合図。それで手近な入り口から入ったのです。そしたら、中を歩き始めて2両目でこちらに向かって手を振る人が二人。

     あれ、誰に振っているのかな.....と思って接近したら、キッチン5の優子さんとその友達。「あんら....」ってなもんですな。お二人で長野県にお出かけとか。そもそも駆け乗りになった理由は、新宿駅の5番線の前にジャガイモのパイを売っている店があるため。

     その他製品は買ったことがあるのですが、パイはいつも長い列で買えなかった。それがこの日は非常に列が短かった。できあがり時間を見たら列車発車の2分前。「ちょうどいい」ってなもんです。で、店の人に「あの、列車の発車が2分後で....」とか話していたら、お二人いた前の人が「じゃ最初にどうぞ...」。「済みません...」ってなものです。

     ついでにその他製品をちょっと多めに買っていたので、二人にそのお裾分けをして私は自分の車両に。その後は直ぐに寝てしまったので、お二人がどこで降りたかも知りませんが.....


    2001年09月14日(金曜日)

     日本の報道機関のテロ報道でどうしても気になることがある。それは、延々と日本の企業に勤める日本人のことが中心で、例えばワールド・トレード・センターにあまたある企業の中で、外資系にもたくさんいる日本人の事が欠落しがちな点である。あとから二人追加された日本人でミッシングな人は、外資系で働いていた人だった。

     どこの国でも自国民がどうなったかは大きな関心事項である。しかし、日本ほど「日本人は....」と騒ぐ国は珍しい。しかも今回の場合は、「ワールド・トレード・センターには30以上の日本企業があって....」と報道が始まる。ワートレに入っているような日本企業にはアメリカ人もたくさん働いているし、逆にワートレにのアメリカ企業、その他外国企業にも日本人がそこそこいる。

     それを消息のところで、あたかもアメリカやその他企業に勤める日本人を忘れたかのように、「富士銀行の......中央三井銀行の......」と連呼するのはいかがなものだろうか。ビジネスの世界はかなりグローバル化が進んでいるのに、日本国内は相も変わらず「ドメ思考」から脱しようとしない。

     私の友達でも、外銀、外資に勤めている人間は一杯居る。そういう人たちに何かいっちょうあったら、どちらかと言えば「次の話題」に置かれてしまうであろう事は、容易に想像がつく。直せと言ってもなかなか直らないのかもしれないが、何かと言えば直ぐに「日本人、日本人」と騒ぐのは、いただけない。
     ――――――――――
     ウォール・ストリート・ジャーナルは非常に個性的な新聞で、絶対写真を使わない、常に冷静というのが売りですが、さすがにこの一両日の同紙は特別バージョンになっていて、こうした形で見出しが著しく大きくなっている。記事のトーンは変わっていないのだが、やはり事態の大きさを如実に示していると言える。


    2001年09月13日(木曜日)

     13日の午後6時14分に到着したメールです。ニューヨークから。私が為替営業室長をしていたころのフォワード担当、鈴木君がくれたもの。まさに事件の時にワールドトレード・センターの82階に居た....という驚くべき内容でした。見出しは、「Just Survive」というもの。

     都合により削除しました。


    2001年09月12日(水曜日)

     債券市場は13日から開くが、株式市場は早くても14日、遅ければ17日が再開になる...と米取引所関係当局の発表。そうでしょうね。債券市場には物理的な取引所がないが、ニューヨーク証券取引所は倒壊したワールドトレードセンターに近い。市場関係者が出勤するとなれば、救助作業に支障をきたすでしょう。

     あと関係者が株式取引開始を延期している理由としては、communications problems、 power concerns、the safety of buildings、the ability of trading personnel to access their offices 。ブッシュ政権としてはなるべく早く再開して、「テロの打撃は少ない」ことを示したかったのでしょうが、まだ停電している証券会社のオフィスもあるそうで、無理。

     12日の取引で言うと、欧州市場が反発したことに筆者は注目したい。FTが136.10(2.87%)、ドイツのDAXが61.67(1.44%)のアップ。11日の下げ分は取り戻していない。しかし、改めて「一時的ショックの市場への影響は短時間」という市場の鉄則が当たっていると思う。結局は、市場を取り巻く環境がどうであるか。それから見ると、世界の主要市場の「持続的反発」にはまだ時期尚早の感じがしますが、テロで下がり続けることはない、ということは立証された。

     今回のテロは、アメリカに対するテロというより市場経済そのものに対するテロの意味合いがありますが、もしそうだとしたら市場経済の代表である株式市場の閉鎖が続いたり、下げ続けるのは一種の屈服ですから望ましくない。
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     昨日は昼間の数時間をTBSラジオの特別番組の為に時間を過ごしました。そこでも言ったことですが、やはりアメリカには一種の慢心があったのだと思う。まあ、慢心というか想像を絶する事への想像力、理解力。何かというと、核にも、サイバーにも、そして細菌にも備えた。しかし、乗客を乗せた飛行機が武器になるとは......と言うことでしょう。

     合理的なアメリカ人にとっては、そもそも suicidal attack というのが理解を超えている可能性がある。生と死がそれほど隔絶したことではないイスラム原理主義者にとっては、「死」は次の世界での神に祝福された生への一歩に過ぎない。そういう死生観がなければこれは出来ない。

     もう一つはアメリカのマスコミはまだあまり書いていないのですが、筆者は政権の交代との関連である。クリントンは、中東和平にも極めて真剣だった。任期の最後の最後まで和平に努力した。今回のテロが中東に関連しているというのは一般的な見方だが、もしそうだとしたらその和平に尽力している大統領がいる国には、思っていてもテロはなかなか難しかっただろうと思う。

     しかし、ブッシュ大統領は違った。何でも America Firstで環境問題にしろ、ミサイル問題にしろ孤立主義的で世界の顰蹙をかったし、中東和平にも消極的だった。アメリカが動かなければ中東和平は手詰まり。こうした手詰まりがテロリスト達の決断に繋がった可能性がある。
     ――――――――――
     この事件に関しても、いろいろな方からメールを頂きました。「ショックを受けた」という方が多かったように思います。そりゃそうですね。規模が大きいし、suicide attack の恐ろしさもまざまざと示されている。反応が大体分かる他の世界各国に対して、その後の動向がはっきりしないのが中国ですが、上海からは長谷川君が以下のメールをくれまし。

     長谷川/上海事務所です。アメリカで発生している同時多発テロ(?)、こちらでも騒然としております。

     昨夜は友人の送別会で10人ほどの日本人と食事をしておりましたが、 一人の携帯電話に「WTCに飛行機が2台突っ込んだらしい」との連絡 が入った途端、送別会どころではなくなりました。

     小職も帰宅後、慌ててNHK衛星(上海ではワールドプレミアム放送以外 にも、衛星第一と第二が受信可能)放送を食い入るように観ておりました。 現状を確認した上で、他のチャンネルに換えてみました。CNNは当然本件 ばかり、フランスTV5も(勿論言葉は分かりませんが)このニュースばかり、 スターチャンネルもやはり本件ばかりでした。また、香港系の衛星テレビ局 もこのニュースをライブで取り上げておりました。

     しかし、中国のテレビ(中央電視台)のみはどのチャンネルも通常放送でした。 今朝、出勤時にタクシーのラジオから流れてきた7時のトップニュースですが、 当然本件かと思いきや「国家首席江沢民同志は北京で・・」、本件は2番目の ニュースでした。

     未だにマスメディアは共産党の宣伝媒体に過ぎないこと、貿易面では米中関 係は切っても切り離せないものの、一般生活レベルではそれほど米国が近い 国ではないのかもしれないという考えを再確認する次第。

     少し気になったのが、NHKはかなり早くから「法人安否情報」をテレビで流して いましたが、他国のテレビ局ではそれらしいニュースは(小職が観た範囲では) 流されていなかった。この手のニュースは日本にいるときは当然のものと思って いましたが、こうして異国に住んでいると「我々日本人は民族として閉鎖的なの かもしれない」と痛感。


    2001年09月11日(火曜日)

     アメリカはその独立直後の混乱時以外は、本土を今回のようにあたかも戦争(空襲)のような形で外国から攻撃されたことのない国です。その国の最大の都市ニューヨークの象徴的なビルが2棟(日本時間の12日朝にもう一棟)も、またワシントンでは国を守る役割を持つ役所(国防総省)のビルがいくつも同時に攻撃にあい、それが何億人もの人間がライブで見守る中で行われた。

     私も携帯電話に入ったフラッシュ・ニュースで知った後家に帰りずっとテレビを見ていましたが、それは信じられないような光景だった。ニューヨークには4年間も住んでいましたから、ワールドトレード・センターには何回も行った。日本の企業もいっぱいある。ニューヨークに今住んでいる秋山君からは以下のメールが来た

     今日は、かなりバタバタしました。何とか無事ですが、目の前のCNN実況中継中にワートレビルが崩れ落ちるのを見たのはショッキングです。

     市場状況としては、マネーマーケットは開いていても、債券市場からはプライス が消え、レポ市場も殆ど成り立たず、また個人でもシティーバンクも支店によって はキャッシュ引出しが加速し、クローズするものも。

     バンキングの我々にとっては虐めの様な状況でしたが、こんな状況でも開き続けた 為替市場はショックに慣れている?世界で最大のニューヨーク金融市場、それも 米国債券ですら流動性がなくなっている中、やはり為替市場は大した物です。

     しかし、この軍事大国米国を持ってしても、このテロに対しては無力だったのは 驚きです。やはり、かなり油断があったのかも知れません。

     しかし米国もこのまま黙っているとも思えません。恐らく世界の世論を 見方に付けて報復措置に出るでしょう。景気回復ににはやはり戦争が必要なのでしょ うか?

     何れにせよ、明日以降の相場(東京の株式市場含む)が大変ですね。ボラティリティ が商売の我々ですから動かないよりは良いのですが、もう少し平和な世の中の方が良い ですね..

     先ずはご連絡まで

     ほんとうにそうですね。人々が銀行の窓口に殺到したというのは、知りませんでした。いくつかの疑問が沸きます。
    1. テロにしても、なぜ何機ものハイジャック機をターゲット(ワールドトレード・センターやペンタゴン)に誘導することが出来たのか
    2. その前に、なぜ11機もの飛行機が同時にハイジャックできたのか。そうした情報はなかったのか
    3. この犯行を行った組織は数人という単位でないことは明らかでかなりの規模を持つ組織であり、かつ攻撃は明らかに suicide attack だったが、その確信はどこから出ているのか
    4. テロは今後も続くのか。続くとしたら、どういう形で続き、アメリカはそれにどう対応するのか
    5. この攻撃は、アメリカでの政権交代と関係があるのか。つまり、中東和平に積極的でないブッシュの存在が、攻撃への誘因となったのか
    6. アメリカ政府はどういう形でこの攻撃に対して威信回復など国民の納得する措置を取るのか。その際には武器の使用を行うのか
    7. 世界経済や安全保障のシステムにどういう影響があるのか。この事件をきっかけに、世界は戦後の安定期から混乱状態になるのか
     などでしょう。事件の直後からテレビを見ながらネットをワッチしていたのですが、その時の特徴は世界の代表的なメディア(新聞など)のフロント・ページのリトリーブはかなり遅くなった。世界中の人がアクセスしたのでしょう。その時に採取したフロントの画像をこういう形でPDFにしておきました。FTのフロントにそれが現れている。亡くなられたであろう何千人もの人々には、哀悼の意を表したいと思います。


    2001年09月10日(月曜日)

     一つ面白い話を思い出しました。「中国は人の値段が安い」という一つの例。それは道路工事などを見ても分かるのですが、今回もっと笑ったのが上海のカラオケ

     高木君とカラオケに行ったのです。食事の後。日本の銀座や六本木のバーとのかけあわせのようなもので、客一人について一人の女性が付く。そしていざカラオケを始めたのです。短時間にちょこっと歌って帰ろうと思った。

     ある曲を入れたのですな。ちっとも出てこない

    小生 ちっとも出てこないね
    高木君 .......
    小生 まだ.....(女性が立ち上がってどこかに出ていった)
    高木君 伊藤さん、上海は実はですね.....
    小生 え....
    高木君 カラオケの曲を操作しているのはオジさんなんですよ...
    小生 (?_?)
    高木君 つまりですね、部屋からオーダーがあるとその曲のディスクを音楽室にいるオジさんが機械にかけるのです
    小生 え、そうなの...(女性が帰ってきて高木君にひそひそ)
    高木君 で、伊藤さんが今歌おうとしている曲は、別の部屋の別の人が歌っている....
    小生 ディスクが一枚しかないから、駄目って言う訳ね....
    高木君 ピンポンです。別のをやりましょう.....
    小生 そうねえ.....
     ま、合理的なんでしょうね。上海の高速道路の建設でも、いよいよせっぱつまったら人海戦術だったらしい。少し一日当たりの賃金を上げたら、凄い人が集まって道路はきちんと建設できたというのです。ここにも書きましたが、中国には巨大な人のプールがある。


    2001年09月09日(日曜日)

     ほぼ5日間完全にマーケット関係の情報から隔絶していたので、日曜日に曜日に従って新聞を読み直したりしていたのですが、あまり状況は変わっていない。日本もアメリカも景気のリバウンドの兆しはあまりない。

     毎年秋になると市場が不安定な状況が出来上がるような気がするのですが、今年もそうなんでしょうね。かなりの銘柄の株価は日米ともで安くなっている。そういう意味では、反発の素地は出来てきてるのでしょうが、では「持続的か」と言えばそうは言えない。マーケットに参加するなら、今は「hit and run」なんでしょうね。
     ――――――――――
     メールも必要なものは読み終えて、一応の対処をしたのですが週初にもらったメールには週末まで対応できなかったので、「この人は何をしているんだろう。興味がないのか」と思ってしまわれたようです。しかし、だからといって壊れた話はない。

     思ったのですが、メールなど便利なものがでてきて我々は気が短くなっている。時間が短縮されてきているのです。しかし、最初からそれが使用できない場所に行くと、それはそれで慣れるもので、特に気にもならなかった。対応できるんですな。


    2001年09月08日(土曜日)

     リユニオンしたのも短時間で、金曜日の夕方からグループを離れて一人で武漢から上海に移り、上海には約20時間近くいました。ホテルで高木君と長谷川君が待っていてくれて、そのまま軽く食事をして、中国経済や上海に進出してきている日本企業の動向などに関して話をした。

     携帯電話関連の動きが早いようです。それは中国政府の部品の中国国内調達比率の引き上げ(50%程度への)方針を背景とするもの。部品調達比率が低いメーカーは、周辺の部品メーカーの中国進出を促さざるを得なくなった。従って、日本を含めて各国の企業の動きは活発なようです。

     上海の街の様子を見ても活気はあるのですが、中国経済そのものは鈍化の兆しを見せているという。今年下半期の中国の輸出はかなり落ちるだろう、との見方が強いらしい。1ー6月はまだ景気は良かったようです。欧州がそうであったように、アメリカの景気悪化の影響は、他のアジア諸国、日本などを通じて中国にも影響が出てきている。

     少し話した後、有名なバンドと呼ばれる一帯の夜景を見に行きましたが、確かに綺麗だった。ビデオをホテルに忘れたのが残念でしたが。普通は夜10時半までライトアップされているという。しかし今週は「観光週間」とかで、夜の11時まで。横浜正金銀行、香港上海銀行などの金融機関の上海支店(といっても立派な)が並ぶ。立派な建物で、「文革中もよく壊されなかったものだ...」と。
     ――――――――――
     20時間しかいなくても結構時間はあるもので、9日の午前中に頃合いを見計らって「上海老街」(ローチェ、旧市街)に行きました。別に昔からあったものではなく、市が昔の雰囲気を出そうとして意図的に作ったもの。土産物店街です。しかし、それなりきの雰囲気はあって、ビデオ撮影の対象としてはなかなか良かった。

     老街を歩いていて気づいたのは、新旧がかなり旨く混ざり合っている点。スターバックスの店もあったのですが、うまく街にはまっていた。この街の建設を最初から見ていた高木君によると、シンガポールが街に深みを持たせるために古い市街を立て直したように、上海も旧市街を改めて作った意味合いがあるという。しかし、雰囲気もあって、おみやげ物店が多い点で、観光客には便利です。
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     出発が午後3時過ぎなので高木君と空港の近くの楼外楼(1848年から営業している老舗らしい 6262-6789)で食事をしながらいろいろ話していたら、面白かった。またまた中国の人たちに諸葛孔明がなぜ受けるのか、という話をしたら、彼の解説が面白かった。こういうのです。

     つまり、中国人は3年間つきあったから判るが、基本的には中華思想、自分中心の思想、考え方の持ち主である。しかし、そうした中で諸葛孔明は徹底して自分を捨てて国の為、君の為に尽くした。中国の連中はそこに、つまり自分にないものに憧れをもって尊敬しているのではないか、と。

     諸葛孔明は日本で言えば黒田官兵衛です。しかし、日本では織田信長だったり、太閤秀吉が人気がある。日本人は会社人間を見てもそうですが、最初から滅私の部分がある(異論があるかもしれませんね)。だから、それを突き破った人間に憧れるが、逆に中国では皆がそうだから逆に滅私に走った諸葛孔明に人気があると。ははは、この議論は面白い。
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     結局、成田に着いたのは午後の7時過ぎ。月曜日に重慶のホテルで24.5でインターネットをして以来、全くネットはしませんでした。メールも全部はチェックできず。ネットに繋がったホテルもあったのです、なにせスピードが遅すぎて役に立たない。遅いネットを扱ってみると、ISDNでもADSLでも日本にいる我々がいかに速いネットを当然として扱っているかが判る。また判ったのは、思い添付資料が多いメールが多いと言うこと。開けたらなんと300通近いメールが貯まっていた。

     改めて思ったのは、成田エクスプレスの中でこのメールを全部 i mode でチェックできたのには驚きました。添付資料は最初から読み込まない。個人の連絡用としてはそれで十分なんです。ニュースもチェックできる。優れたシステムです。


    2001年09月07日(金曜日)

     山峡ダムを通過したのは6日の早朝で、その後は宣昌(ぎしょう)で下船し、三国時代の古戦場の後などを見学。今度は陸路で武漢に向かったのですが、総じて言えることは中国の歴史の古さです。物語は大袈裟にしてあるのでしょうが、それにしても「あのときはこうだった」「ここでどうした」と史実が山ほど残っている。

     三国時代は紀元220年から280年ぐらいまでを言うのですが、まだ日本では神が入り交じった歴史しかないころです。その時にこの国では、どこで誰が戦ったとか、ちゃんと歴史に残っている。

    三国時代 さんごくじだい 後漢滅亡後の220〜280年に、中国には、魏・呉・蜀の3国が分立したが、この時代を三国時代とよぶ。

     184年におきた黄巾の乱は、すでにおとろえていた後漢王朝の支配力をまったくうしなわせ、以後、私兵をもつ豪族が、各地で抗争をくりかえした。その中で、黄巾討伐軍の将のひとりだった曹操が頭角をあらわしてしだいに勢力を拡大、本拠地であるイ(ぎょう)に献帝をむかえ、3世紀初めには華北東半の諸勢力を平定した。

     その後曹操は中国の統一をめざして、南方へ出兵したが、208年の赤壁の戦で孫権・劉備の連合軍に敗北し、その計画はならなかったが、215年には漢中を制して、事実上、華北の支配者となった。いっぽう、劉備は益州(現、四川省)を攻略して領域とし、独立した勢力となった。すでに孫権は長江下流域を領しており、ここに中国は曹操・孫権・劉備に3分された。

     216年に曹操は魏王となったが、彼はあくまで漢の臣下という立場をとりつづけ、また孫権と劉備も同じように漢の臣下と称したため、漢朝は形式的に存続した。しかし、220年に曹操が死去すると、子の曹丕(そうひ)は献帝に帝位をゆずらせて文帝となって、魏王朝をひらいた。前漢景帝の子孫を名のる劉備はこれに対抗し、221年に漢を再興するとして帝位につき、蜀漢、いわゆる蜀を建国、さらに孫権は一時魏に臣下の形をとって呉王となったが、229年に彼もまた即位して皇帝を名のった。

     こうしてしばらくは3国が鼎立(ていりつ)したが、234年に蜀の宰相、諸葛孔明が亡くなると、魏の圧力をささえきれなくなり、263年に首都成都が陥落し、蜀は滅亡した。その後、華北の魏と江南の呉が対立する時代がつづいたが、265年、弱体化していた魏では、権臣の司馬炎が帝位について晋王朝をひらき、魏は滅亡、呉も孫権の死後は内部抗争によって国力がおとろえ、280年に、首都建業(現、南京)が晋軍の攻撃によって陥落し、三国時代はここに終結した。

     ということらしいのですが、私たちが見たのは彼らが跳梁跋扈した時代の跡ということです。史跡や遺跡がいっぱいある。まあ私には諸葛孔明のように忠誠を尽くしたということだけで歴史に名を残している人を中国人が尊敬しているのが理解できなかったのですが。で、中国人に聞いたのです。何で諸葛孔明のような人が尊敬を集めるのかと。そしたら、その中国人の答えは「戦略家として頭がよい」「心も尊敬できる」と。
     ――――――――――
     でこの日のハイライトは、私の忘れ物でした。なんと船のホテルを朝下船して、さんざん移動し、もうその日も終わりでもう少しで武漢に着くと言うときに船のホテルのセーフにパスポートを忘れたことを思い出した。船も下りを続ければ武漢に近づくはずなのですが、ガイドの郭さんに調べてもらったら沙洲というところで下りをやめて、今度は山峡上りになると言うことが判った。次の停泊地は、山峡ダムそのもの。

     でこうしました。夕食は皆と一緒に食べる。その後ホテルのタクシーを雇って4時間を飛ばして宣昌に戻って、そこのホテルにチェックインする。その上で、船の翌日の停泊が午前10時から11時の間なので、その間にその停泊地に行く。結構長いのです。中国の高速道路は揺れる。また揺られるのは大変だと思いましたが、まあタクシーの運転手とガイドの簡さん(帯同するガイドとは別に、現地ガイドが付きます)の中国人二人と小生でまた珍道中も良い....と。セーフのカギを持ってきてしまったので、私が行くしかない。

     武漢を出たのは午後の10時頃。高速道路をずっと走ったのですが、驚いたのは中国も車社会になったというかガソリンスタンドは開いているし、ドライブインもある。むろん数少ないのですが。食事はまずいのですが、それでもコーラや知っている食物は売っているし、その他のものも食べられそう。

     宣昌に着いたのは午前1時30分くらいでした。それからインターネットをしようと思ったが駄目。しかし、翌朝のホテルから山峡までの車での旅は、凄い峡谷の間を上がったり、下がったりでスリル満点の旅でした。まあ、多くの日本人が山峡ダムを見ている、山峡の景観を楽しんでいるのでしょうが、山道を通過して見に行ったのは(?)私くらいでしょう。

     助かったのは、完全に中国が「携帯社会」になっていたことでした。ほぼどこに行っても、電話が通じる。私は中国語を話せませんが、ガイドの簡さんが全て連絡してくれて非常に助かった。

     北斗号が停泊予定地に接近したときに、ちょうど私たちが乗ったタクシーが停泊地に接近した時。なんという正確な。北斗号のホテルの船長が待っていてくれたし、二日もいましたから、船員も覚えてくれていた。再び北斗号の中に入って面白かったのは、山峡上りのお客は西欧人が多い。日本人は「山峡下り」が有名な中で、「下り」を好み、西欧人は三国志もしらないから、山峡の上ってくるのかもしれない。

      パスポート事件は、まあ私にとって「オプショナル・ツアー」のようなものでした。武漢→宜昌、宜昌→山峡ダム、その逆と全てタクシーを雇って移動しましたが、日本の感覚すれば決して高くはない。金曜日の午後には武漢の観光をしていた一行に短時間ですが合流。


    2001年09月06日(木曜日)

     この日のハイライトは、早朝、午前6時30分前後に約15分をかけて通過した山峡ダムの工事現場です。どう進められているかというと、1997年に水を迂回させるための川幅35メートルの人工の川が作られた。しかしこの川はダムの完成と同時に埋められる。乗った船は、人造河川を通過、工事現場を見学するという形でした。

     ものすごい数のクレーンが林立している。ほぼ24時間体制で動かしているのだそうです。日本からも専門家が何人か来ていると言っていた。ただし日本は発電機の入札では失敗したらしい。ドイツとアメリカの機械が来ていて、ドイツは8機だと言っていたと思う。

     完成すると、全中国の発電量の8%を生産することになるし、ダムによって出来る湖は中国最大の自然湖(なんとかと言ってました)より大きくなると言う。ダム建設の目的は三つです。一つは、長江、下流の揚子江での水害防止。つまり治水です。第二は、発電。これは上記の通りで、期待は大きい。第三は灌漑で黄河と結ぼうという計画もあるらしい。90年代の半ばにも大きな水害があったらしい。狙いはナイスですが、下に掲載するエンカルタが書かれたときでも既に強い反対があったし、今でも快く思っていない人が多いと推測できる。

     面白かったのはガイドが挙げたダム建設のデメリットの五つ。順番に言うと彼はこう言った。

    1. ダム建設による天災発生の可能性。例えば、水位が変わることによって山が崩れ落ちるとか。彼は「地震」と言う言葉を使っていましたが、まあ全部まとめてダムを造ることによって逆に起きる災害ということです
    2. 次に、「ダムは格好のミサイルの攻撃目標」になるという国防上の指摘。攻撃されてダムが決壊すれば、下流に住む何千萬人の人間が逃げ場を失うことになる、とガイドは説明
    3. いろいろな遺跡や歴史的建造物が埋没する、それをどうするか(これは下のエンカルタの記述でも明かです)
    4. 上流の住民を移住させねばならないコスト(これは既にかなり進んでいる印象。河の175メートル上に不釣り合いな新しい集合住宅、アパートが行列を作って建設されていた)
    5. 流れてくる土の処理をどうするか
     実は最後の問題が一番重要なのではないかと思う。政府サイドは流れてくる土砂を逃がす方法は検討したと言っているらしい。しかし、河の色を見てもものすごい量の土砂が流れてくることは容易に想像できる。それを本当にうまく逃がせて、ダムを当初予定した通りの価値あるものとすることができるかどうか。

     以下は、恐らく1990年頃に書かれたと思われるエンカルタの山峡ダムに関する記述です。この文章によれば、山峡ダムは最初に考えたのは孫文だと言うから、構想としては古い。全体主義国家だったから反対は無かったのかと思ったら、決める段階でも相当反対が強かったことが判る。

    三峡ダム さんきょうダム 三峡は、中国の西陵峡、巫峡、瞿塘峡の3つの峡谷を総称したもので、長江(揚子江)中流域の観光地として有名な場所である。中国第1位(世界3位)の大河・長江は、中国を東西につらぬく大河だが、その上流、湖北省宜昌市の西北約40kmの三斗坪村に建設中のダム。

     治水、発電、灌漑などが目的で、完成は2009年を予定している。そのほか、大型船の航行を可能にして、長江を輸送路としても利用していくことになっている。計画どおりの水路ができると、1万トン程度の船舶が重慶市まで航行できるといわれる。

     長江は、中国の歴史の中でも、たびたび大きな洪水をひきおこしてきた。その水をコントロールして、農業生産を増加させ、工業開発も同時にすすめようとする計画案は、古くは、孫文が1919年に発想したものだといわれる。国民党政府時代には、アメリカの技術コンサルタントが提出した計画で、設計に着手する直前までいった。

     革命後は、1950年代に周恩来が建設計画を検討し、59年に策定された「長江流域総合利用計画」の最重要計画とされた。70年代末から本格的な建設に着手したが、国内での反対論も多く、建設の決定は中断したままになっていた。

     ダムは長さ1983m、高さ185mで、完成しているダムでは世界第1位といわれるイタイプ・ダム(ブラジル)のおよそ2倍のコンクリートをつかう計算になる。完成した後のダム湖は、長さ約600km、総貯水量は393億m3で、水力発電は出力70万kWの発電機を26基、合計1820万kWの発電をおこなう予定。このうち14基は海外から調達し、ほかは外国のメーカーから技術を導入して、中国国内で生産する予定になっている。

     1991年夏に長江流域に大きな被害をもたらした大洪水があり、92年の全国人民代表大会(全人代)では、建設案が採決された。しかし、大会出席者の約1/3が反対または棄権に票を投じた。全人代で、これだけ多くの反対票があるのは、当時としては異例で、強い反対意見の存在も明らかになった。95年12月に本格着工となった。

     水没予定地域では、住民約180万人が退去しなければならない。流域には、ヘラチョウザメや揚子江カワイルカ(→ イルカ)といった、世界的に貴重な水生動物が生息しているが、かなりの種が絶滅する可能性がある。また、長江がはこぶ大量の土砂が堆積(たいせき)して、短期間のうちにダムが機能しなくなる危険性も指摘される。さらに、巨大なダムは、反中国的なテロ活動の標的になる危険がある、といった反対意見も国内にある。三峡地区は、古代中国楚の愛国詩人である屈原の故郷に近く、渓谷の後方に山がつらなる奇観は、白居易もたたえたみごとなものであるが、ダムが完成すると、景観は大きく変化する。

     中国の調査では、ダムの建設によって水没などの影響をうける古墓、遺跡、古代の建築物などの文化財は、湖北、四川両省に少なくとも600カ所、国家や省の重点保護文物が6カ所もある。その中には李白の詩文に、その美観をたたえられた白帝城や、長江の川底の自然石に、詩文や魚の絵などを彫刻した「白鶴梁題刻」、三国志の英雄張飛が水軍を訓練したといわれる「練兵台」や張飛廟(びょう)などもある。可能なものは移設する予定になっているが、かなりの文化財がうしなわれる危険ものこる。

     日本はすでに1985年に日中経済協会が「協力委員会」を設置して、政府も資金協力の検討を約束し、中国側からの資金要請に対応する体制がつくられている。96年末とみられる水力発電設備の国際入札にむけて、日本の重電・重機械メーカーと大手商社が連合して、応札する構えだが、ヨーロッパのABBなどの企業連合も活発な受注活動を展開している。また、内陸部への船舶航行については、96年中にも、日中共同で海運会社を設立する方向で協議されている。三峡ダム建設は、水力発電設備だけでも1000億元、総工費は、2340億元(1元約12円として、2兆8000億円余り)と巨大な額になる。


    2001年09月05日(水曜日)

     長江のこの日の夜明けは、午前6時過ぎでした。たまたま目が早く覚めたので6時前から船の一番上のデッキに出て、一部始終を見たり、ビデオに撮ったり。なかなか雄大で良かった。といっても、晴れていないので「鮮明」というには遠い映像になりましたが。

     船は夜の間は河の真ん中に停泊していて、そのまま動き出した。ですから、徐々に両方の川岸の稜線が明確になってきて、その後に両岸(とってもかなり高い山というか崖になっているのですが)にある街の様子が形を持って見えてくる。

     船は午前5時半に汽笛とともに動き始めていましたから、その稜線や景色が変わっていくのを見ながら明るくなるのを待ったというわけです。この日は極少数のお客さんしか夜明けを見に起きてきておらずに、なかなか爽快でした。中に、ビデオをもって来ていた人が居たので、互いをビデオを代えて撮りあったりした。

     河の流れまで完全に見えてきて、もうこれ以上明るくならないという段階になったのは、午前6時45分過ぎですかね。朝に夜明けを完全に撮影することに成功したので、むろん一日を終わらせるために、陽の入りも撮りましたが。
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     この日のハイライトは、まずなんと言っても白帝城でしょうか。長江の岸からそそり立つような崖の上に立てられている城。李白の詩で有名です。日本でもよくNHKテレビなどがやるので見てはいた。本当に急峻な坂の上にある。長江の水位が普通の時で700段以上の階段があり、その階段を自分の足で上がるか、それが駄目そうだったら籠で上がる。

     17人のメンバーのうち、確か6人が籠を選び、11人は私を含めて歩きを選んだ。籠に乗ったことがなかったので迷いましたが、まあ他に機会はあるでしょう....ということで、700段の階段とはどんなものやろう...と。

     ガイドが脅すのです。歩くのは大変ですよ.....と。しかし、実際に歩いてみたらちょっと息は切れたが、結構直ぐ着いた。本当に急峻な階段で、籠の人の方が危なっかしい印象。籠は前と後ろの二人が担ぎます。見ていると登りよりも下りの方が危険そう。李白の歌があちこちに様々な書体が書かれていて、そのころから籠はあったのでしょうか。知りませんが。

     この籠担ぎ達の仕事も、あと数年です。水位が上がり始めたら、わずか200段かそこらで上(白帝城)に着いてしまう。200段でも足の悪い人が白帝城を見ようと思ったら乗るかもしれないが、あれだけの人数はいらない。
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     次は山峡でしょうか。上流から瞿塘峡、巫峡、西陵峡とあって、最初と最後だけは熱心に見ました。どうも巫峡は知らないうちに過ぎてしまった。要するに狭くなっている。河がです。しかしただ狭くなっているのではなく、両方の岸壁が普通ではなく急峻というか、そそり立っているのです。

     あまりに狭いので、船は両面通行が出来ない。時間帯で分けているらしい。上り、下りで。うまくその時間に行かないと、長く待たされる。われわれもかなり待ちました。動き出すと、その狭さよりも河の両岸の景観に驚かされる。垂直に岩が切り立っているのです。

     よくここに河が出来たなと思う。自然が徐々に掘り下げていったのでしょうが。瞿塘峡が一番印象残った。最初だったし、昼間で一番良く見えましたから。西陵峡は夕暮れであまり良く見えなかった。

     これもあれも、山峡ダムが完成すると景観は一変するのです。急峻な崖なんてものはかなり水没する。中国では珍しくこのダムに反対が多かったのは、李白の時代から多くの詩作の舞台になってきた景観を失う事への中国の人々の反対が大きかったと言うことでしょう。確かに洪水は大問題だし、発電も、灌漑もしたい。しかし、古代から人々が愛してきた景観が変わり、山峡下りという観光業さえ危うくなると言う環境では、もし日本だったら大問題になったでしょうな。

     この旅を企画してくれた今泉さんなどと、2009年にダムが完成した後に、使用前、使用後でもう一度同じところを見たいというような話をしました。まあ、かなり変わっているでしょうね。
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     最後の見所は、神農渓でしょうか。少数民族の土家族(どかぞく)が住む峡谷につながる風光明媚な渓谷。やはり河を移動するのですが、大きな船は入れなくて、土家族の壮健な男子5人(前3人、後ろ2人)が漕ぎ、そして舵を取る土船に分譲して乗る。

     ここも凄いところです。土家族は歌が好きだそうで、2曲ぐらいうたってくれた。見た目には漢民族と変わらない。本当は土家族の住んでいる村に行ってみたかったのですが、「もうちょっとで見れる」というところでU-ターン。

     しかしこの渓谷も観光に使われだしたのは1990年代に入ってからで、それまではあまりに急峻な崖でいろいろ落ちてきて危ないと言うことで観光も禁止されていたという。また来たいところです。夜は船の旅の最後と言うことで、さよならパーティーが開催された。ちゃんと芸を用意してきている日本人の団体がいたのにはびっくりしましたな。


    2001年09月04日(火曜日)

     長江は、ちょっと強い言葉を使えば汚濁した河です。むろん日本の感覚の川ではなく大河ですが、こういう喩えが当たっているかもしれない。長い河ですから、場所によって違うでしょうが。つまり、長江とは台風の直後にまっ茶色になって流れも速くなり、水も攪拌された状態の、かついろいろなもの(木くずなどのゴミ)が流れてくる大きな河。

     一年中そうなのだそうです。まっ茶色で、常に何かに攪拌されたかのように河が流れている。何千年も前からこういう状態だったのでしょうか。この河を船で下り始めているのですが、汚濁しているのに不思議と河の臭いはしない。あとで書きますが、別の臭いがします。まあ、2日間くらいこの河とおつきあいです。

     同じグループの作家である水木さんが、参加者に出した宿題があったらしい。私は一日遅れの参加ですから、聞いていませんが。こういうことです。2年か3年前にこの長江で死んだ日本人が居た。どう考えても、それは自殺だったそうです。この茶色の流れの激しい河を見てふっと思ったのか、それとも日本を出るときに既にそのつもりだったのか。いずれにせよ、当然ながら死体は見つからなかった。それこそ「大河の一滴」になったのです。

     で出た宿題とは、この日本人の自殺と思われる死を題材に、ストーリーを考えるというものです。うーん、私はまだ考えていませんが。
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     話は少し戻ります。グループのメンバー全員と会えたのは、4日の朝でした。3日に辻、石田両嬢とはホテルの前で会いましたが。去年と同じく鍋研究会の皆さんが主。去年いらっしゃらなかったメンバーも増えて、総勢17名。ガイドの郭さんを入れて18人のグループ。

     短時間ですが、重慶に関する印象をと言えば文字通り「重」いということ。空気が重ければ、印象も重い。昨晩は気が付かなかったのですが、朝起きてみて感じたのは「臭う」。何のにおいかと思ったら、石炭を燃やしたときに出る臭いだそうで、その辺で大量に生産される硫黄分の多い石炭をいろいろなものに使っていることから生じているという。冬はもっと石炭の臭いが強いらしい。

     重慶は世界的にも有名なスモッグの都市ということは聞いていましたが、長江の船の上に乗って岸を見ると、確かにぼやけて良く見えない。霧とその他もろもろでかなり濃いスモッグになっている。乗った船は大きいのですが、それでもゆったりと右、左、上下に揺れる。船の中のホテルで、一階が船員(99人)の居室、2階がフロントと食堂、一部客室、3、4が客室、5階がプレールームでカラオケ、麻雀、社交ダンスなどなど。

     乗客は大部分が日本人で、それも歳を取った人が多い。しかし、ドイツ人のグループがいて、そのガイドとはしばらく話をしました。ドイツのいろいろなところから客を集めて来ているらしい。中国全体を訪れる旅行客の半分は日本人だそうだから、重慶でも日本人が多いのは当然でしょう。この船は、1999年に建造したと言っていたので新しいのですが、それでも国際電話はフロントに行かないと出来ないし、インターネットも理論的には出来るのですがすこぶる面倒そうなのでやめ。

     大きいと言っても船ですから、時に微妙に、時にやや感じるほどに揺れる。自分が酔っているのかと思うときが結構ある。中国のデカ牌を触ってみたくて、麻雀ルームがあったので希望者でほんの短時間4人組をしましたが、しばらくやったら自動に慣れている身としては、疲れてしまいましたな。
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     山峡ダムが完成すると、場所にもよりますがこの河の水位は175メートル上がるらしい。当然ながら水没する街がいっぱい出てくる。長江の沿岸にある鬼山の麓の街(豊都)も完全に水没。70000人の人々が住んでいたアパートやビル全部が水没。そのままにして魚礁にするのかと思ったら、爆破するのだそうです。

     その理由は、ビルをそのまま残せば船の航行に邪魔になるから、だそうです。住んでいる住人にはやりきれない気持ちでしょうね。彼らのためには既に住む場所が用意されているらしい。しかし、そこに移るのは嫌で、重慶とか上海に移り住む人も大勢いるのだそうだ。

     どこでしたっけ、大阪でしたか「思案橋」というのがあるのですが、無論本家の中国にもありました。鬼山に。橋が三つある。行きは真ん中の石橋を渡る。行きは夫婦だったら一緒に手を組んで渡るか、それとも一人一人で渡るかを選べる。男は左足から、女性は右足から。理想的には3歩で渡る。それが無理だったら奇数歩で。

     問題は帰りです。帰りの方向から見て真ん中の橋の左側に「大金持ち」になる橋。右に幸せになる橋。で、迷う、思案するわけです。どちらを選ぶべえ.......と。「思案橋」とはよく考えたものですな。


    2001年09月03日(月曜日)

     重慶に移動してきましたが、結構遠い。北京にしろ、大連にしろ今まで行った中国の都市は「近い」と感じたのに、重慶はさすがに遠い。というのも、上海で一度飛行機を乗り換えたからです。国際線からドメに。乗換の上海の空港では、子供の少年野球で一緒だった高円寺の中束(なかまる)さんとばったり。

     聞けば、同じ飛行機だった。衣料関係の仕事をしていて、中国でフリースなどを作っているらしいのです。年の半分は上海の生活という。「上海はここ2年で急速に都市化が進んだ。もう東京と変わらない感覚です....」と彼は言っていた。

     少し立ち話をした後、別れて私はドメのデパーチャーに。ちょっとややこしかったし、国内航空に乗るのにまた50元のタックスを取られたのには閉口しました。それにしても、上海から重慶に向かう上海航空の飛行機も超満員。日本から上海に来た時間と同じくらい(2時間半)の時間を上海→重慶で使った。

     それにしても、全く理解できない言葉を持つ人々(私も中国語は全く駄目)に周りを囲まれるというのも、なかなか良いものですな。上海→重慶で隣に座ったおばちゃんが、「時間は何時」というので、判らないながらも教えたりして面白かった。

     結局重慶に着いたのは、午後の8時過ぎ。高円寺から成田に着いたのは12時ですから、延々8時間+「時差の1時間」がかかったことになる。面白かったのは、上海から重慶に向かう飛行機は延々と太陽を追いかけて夕暮れの中を飛行すること。ずっと西に向かって飛びますから。
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     重慶の飛行場からホテルまではバスもありましたが、バスだと市内に着いてからがやっかいだと思ったので、事前にホテルに聞いていて料金もそれほどたいしたことはないことは確認済みだったので、タクシーを拾いましたが、これが結構恐ろしい。非常に小さい車で、走っていたらもう一人の男が乗り込んできた。どうも案内らしい。客は助手席に乗るのですが、その運転の危なっかしいこと。

     まったく言葉が通じない中国人の若い男性2人と私の約1時間のドライブと言うことです。簡単な英単語も通じない。日本の携帯電話を取り出して、ホテルの電話番号などを確認していたら、この二人が異常に興味を示した。彼らが持っていた携帯は、真っ黒で大きい。昔私も使っていたモトローラの色気のないやつ。えらく感心していましたな。「ポケットに入るじゅないか」というポーズ。それを見て、「ああ、こいつらだいじょうぶだ...」と。

     重慶は、英語がほとんど通じない。こちらは中国語が通じない。タクシーを雇うにしても文字を書いて移動する。ホテルに無事着いて、昨日着いているはずの先発隊は食事に行っているだろうからと、私は別行動。これまたホテルでタクシーを雇って、市内で途中で見た「台北石頭火鍋城」(6360-9200)に。ホテルの女性従業員(ほんのちょっと英語を理解)もよく行くというので、そこに。

     「石頭火鍋」という単語に反応してのですが、行ってみたら何のことはない四川鍋。鍋が右左に割れていて。つまり西新橋・趙揚の鍋です。しかし特徴は、大連の店のように中に入れるものがバイキングのように並んでいて、それを自分で選ぶこと。ビデオを回しましたから、機会があれば。

     夜着いて食事をしただけなんで、「街の様子」と言われてもよくわからない。ただし、昨年行った大連などと比べると、「開発途上」という雰囲気が街に溢れている。しかし、活気はある。夜遅くまで、結構な人が歩いていました。私もちょい散歩しましたが。街は所々繁華街化している。しかし、全体的には重苦しい雰囲気がする。

     難渋したのは「重慶」の発音。日本語方式で言っても通じない。英語で「CHONGQING」と書くのですが、現地の人間に判るように発音するのは難しい。大体、上海の空港で「CHONGQING」と行く先を示しても、判ってくれる人は少なかった。

     中国は略字が多くなっている。重慶も「重」はそのままですが、「慶」が大幅に簡略化されている。中が大だけなのです。実際のところ、中国で看板を見ても漢字とハングルが入り交じっているような印象で、何を言っているのか判るのは全体の5分の1くらいです。


    2001年09月02日(日曜日)

     紀伊国屋で本を買う用事もあったし、seeing is believing ということで、日曜日の午後1時頃に新宿の火災ビルの前まで行ってみました。テレビは火災現場を見せることが役割ですから、その部分を強調する。しかし実際に行ってみると、「火災の痕跡」はビルのほんの一部にあるだけです。

     仮に現場検証のブルーのテントと人だかりがなかったら気づく人もあまりいないだろうし、気づいても「あ、ぼやかな」と思うような痕跡です。しかしその「ぼやかな」と思うような火災で44人もの方が亡くなった。

     亡くなられた方は大部分が、昨日も書きましたが炎にではなく、一酸化炭素(不完全燃焼で発生で回避しがたい部分がある)など有毒ガスでやられた。今までの報道ではこのガスがどこから出たか全く報道がない。ビルの構造の問題もあるのですが、専門家の話によればソファー一個が燃えただけでもビル全体を充満させるだけの有毒ガスが出るケースもあるという。しかも、凄いスピードで広がる。

     としたら、ビルの構造もそうですが、こうした「燃えると有毒ガスを排出する可燃物」を規制することは出来ないのだろうか、という気も強くする。この問題に言及する人が少ないのはどうしてでしょうか。
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     海外で使える携帯電話は、結局四国に出張している間に時間切れとなって、今回は見送り。分かったことは、中国で使える携帯電話への需要は異常に強いと言うことです。どうもどの業者でも一週間前には「予約済み」になっているらしい。

     海外で使える携帯電話という話をすると、10月から世界全体で使えることになるはずのFOMAに連想が飛びますが、今日の朝日には特集記事がある。この記事にもありますが、「それでも本当に始まるか」という懸念は残る。

     既にG2が満杯になっているので、利用者をG3に誘導したい面も各社にあるのでしょう。しかしFOMAについて言うと、試用期間中に生じた問題がきちんと処理されたという報道はない。まあ私は出たら買うつもりですが、暫くは二つの番号を平行使用すると言うことですかね。安定するのを待つ方法もあるのですが。


    2001年09月01日(土曜日)

     新宿西口のヨドバシカメラに買い物があったので青梅街道を新宿に向かって自転車でえっちら走っていたら、新宿警察署の前には夕方になっても大勢のマスコミの方々。警察署の前には、黒塗りの車がずらっと。

     それにしても大きな事故ですね。学生の頃から歌舞伎町には行っていましたし、今でもオールナイトの映画をやるのは歌舞伎町が多いので、たまに行く。直近で行ったのは二週間前に麻雀をしに若手と深夜に行ったことでしょうか、第一報の「歌舞伎町、麻雀店、3階」では「もしかしたら、あの店か...」と。同じ3階だったのです。しかし違った。麻雀店ではなく、ジャンピューターの店だったようですな。

     雑居ビルというのが全国にどのくらいあるのか知りませんが、麻雀をするにも、お酒を飲むのでも、私自身の事を考えても店に入るときに「ああここで火災が起きたらやばいな...」と考えることは結構ある。新宿だけでなく、赤坂だって六本木だって、まるで鉛筆のような細長いビル、内部構造が不明な雑居ビルは一杯。亡くなられた44人の方の何人ぐらいがそうした危険性を一瞬でも感じでいたんでしょうか。多分かなりの人が感じていた筈だ。

     我々もそうですが、感じても「まあ大丈夫だろう」と時間を過ごす。事実、殆どの場合は何もなく時間は過ぎる。ただし、ペンシルビル、雑居ビルを出るときに一瞬「何もなかった」とホッとすると言うことはよくありまよね。44人と火事に巻き込まれた人々は、「一瞬の懸念の現実化」に直面したことになる。我々が出来る最初のことは、なるべくそうしたビルには近づかない、近づく場合は、避難路を頭に描くと言うことでしょう。このビルでも店員は大部分が助かっている。事故に不明点も多い。

    1. なぜ爆発が2〜3回起きたのか、それはガス関連か。なぜガスメーターが落ちたのか
    2. 44人の命を奪ったのは炎ではなく一酸化炭素や有毒ガスだと考えられていて、しかも異常に高い値が出ているが、それを出したのは何か
    3. 一番燃えているのが従業員の私物などが置いてあった階段近く(普段は火の気がない)なのはなぜか、油の痕跡があるのは何故か(放火の可能性も)
    4. ビルの構造上の欠陥(窓が覆われていた、階段が小さいなどなど)が放置された理由と、消防法(一階の床面積100u以上を対象)に落ち度はなかったのか
     などでしょうか。煙突効果という言葉があるらしい。焼けたのはたかだか160u。マンションの二部屋程度の面積。ホテル・ニュージャパン(33人死亡)の火災面積の25分の一。ビルそのものが煙突になって、一酸化炭素を運んだんでしょうな。


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